散らされても

「内側から外側へと」(2020年5月24日 週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

今週の礼拝で読まれる個所は、最初にエルサレムに誕生した教会が、大迫害を受け、クリスチャンがユダヤ、サマリアの地方へと散らされていく個所です。

この時の教会には、ユダヤの言葉である、ヘブライ語を話す人たちと、当時の世界の共通語であるギリシャ語を話す人たちがいました。迫害によって散らされたのは、主にギリシャ語を話す人々でしたが、一方ヘブライ語を話す人々は、エルサレムにとどまったようです。

この散らされていった、ギリシャ語を話すクリスチャンたちは、その散らされた先々で福音を知らせながら巡りあるきました。その一人であるフィリポは、ユダヤ人からは忌み嫌われていた町であるサマリアに入り、人々にキリストを伝えたのでした。このサマリアは、イエスさまが地上で活動なさっていた時にも、避けることなく福音を語られた場所であり、その時に主イエスが蒔かれたみ言葉の種が、サマリアの人々のなかで実っていたのかもしれません。

さてこの出来事を通して思うことは、まず、迫害という外側からの力が働いたからこそ、エルサレムの教会は、自分たちの殻を打ち破り、福音を携えて、外側へと出て行くことになったということです。逆を言えば、このような外側からの力が働かなかったなら、最初の教会はエルサレムから出て行かなかったかもしれません。すでに最初の教会の中では、ヘブライ語を話す人とギリシャ語を話す人との関係が、ぎくしゃくしていました。その調整役として7人のリーダーが立てられるなど、教会の内部の問題解決に多くの労力が注がれていたのでした。その内向きな教会に迫害が起こることで、教会の意識が、一気に外側に向いていくことになったのです。

内向きな意識になっていた教会が、なにかしらの力によって、外側へと意識を向けさせられて、福音が広がっていくという出来事は、今に至る教会の歴史の中で、なんども繰り返されてきたと思います。たとえば、内向きになっていた中世のカトリック教会に対抗し、プロテスタント教会が別れ出た出来事によって、むしろカトリック教会は世界宣教へ目覚めていきました。そのようにして、内側から外側へ意識を向ける出来事の背後に、わたしは聖霊の働きを見るのです。

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