「復活の証人として」 藤井 秀一
先週のイースター礼拝を経て、今日から新年度の教会の歩みが始まります。4月の礼拝では、「復活信仰」をテーマに、聖書のみ言葉に聴いていきます。
<4月の礼拝予定>
・4月7日「復活の証を生きる」
使徒言行録2章22節~36節をもとに、キリストの復活を日常の生き方で証しするキリスト者の生を考えます。
・4月14日「新しい命を生きる」
ローマ人への手紙6章1節~11節から、復活したキリストにある新しい命の意味について探ります。
・4月21日「復活ゆえの希望」
ペトロの手紙一1章3節~9節を通じて、キリストの復活がもたらす変わらない希望に焦点を当てます。
4月28日「復活の主と共に」
1テサロニケ4章13節~18節から、キリストの再臨を待ち望む希望と、私たち自身の復活について考えます。
さて人はいずれ死を迎えるという普遍的な事実を受け入れていますが、イエス・キリストが十字架で死なれ、そして復活されたことは、死という現実を超えた出来事です。ゆえに復活は、一般に容易に受け入れられるものではなく、「信仰」を必要とします。そして「復活信仰」は、単なる個人的な思い込みではなく、キリストの墓が空であったこと、イエス・キリストが多くの人々に現れたこと、そしてその証しを残した多数の目撃者の証言に対する信頼でもあります。特に、使徒パウロは500人以上の同時期目撃者に言及しています。そして初期キリスト教徒たち、特にかつてイエスを見捨てて逃げ去った使徒たちが、迫害を恐れず殉教に至るまで「キリストの復活」を証ししたその変化を、「復活」を抜きに説明することは困難です。
さらに、キリスト教徒を迫害していたサウロが、「キリストの復活」を説くパウロに変わり、この「復活信仰」が当時の世界に広まっていったことも、「キリストの復活」の強力な証です。初期キリスト教徒たちは、復活の約束を確固たる希望として迫害に耐えました。「復活」がなければ、キリスト教は他の多くの宗教や哲学同様に、歴史のなかで忘れ去られていたかもしれません。
その意味で、2000年の時を経て、今も「キリストの復活」を伝えるわたしたち一人一人、教会の存在そのものが「キリストの復活」の証しといえるのです。