出会い―2013年青年大会での証       廣島 愛 姉

出会いとはいつなのでしょうか? 誰と出会うことなのでしょうか?

今回青年大会での証の奉仕を受けて以来、出会いについてずっと考えてきました。

私は神さまを知っていたことを、出会っていたのだと思い込んでいました。

私の人生で何度も何度も出会おうとしてくださっていた神さまに、やっと出会うことができたのは、恥ずかしながら2年前の冬でした。「出会う」という言葉は英語だと「see」と「meet」になります。

神さまはずっとmeetという形で私と出会うことをのぞんでくださって、ずっとseeingしていてくださったのだと感じました。何度も出会いの場が用意されていたのに、自分から出会いとして受け止めることができたのが2年前でした。

 

最初に用意されていた「賛美との出会い」は、私が高校3年生の時でした。福岡地方連合での最後の春の修養会の場で、証をする機会が与えられた時です。

私はずっと教会が嫌いでした。小さな苦しみが少しずつ溜まり、大きな苦しみになってしまいました。半分自暴自棄のような形で、証を通して自分がいかに教会が嫌いであったかを吐いて、去ろうと思っていたはずなのに、証をしている途中で、自分が用意していたものとは全く違うことを証させられている自分に気が付きました。教会の中で愛されず、むしろ嫌われて育って来たと感じていた。そのことを淡々と言うはずだったのに、もしかしたら見えない形で愛していてくれたのかも知れない。祈りに覚えていてくれたのかも知れない。先に心を閉ざしたのは自分で、もしその心を少しでも開くことができていたら、真の意味で、教会のみなさんと出会えていたのかもしれない。これからまだ長い人生の中で、今すぐには難しいかも知れなくても、また自分の教会に戻って、今まで出会うことを避けていた人たちと出会いたい。という希望が与えられました。そんな証を聞いて、たくさんの兄弟姉妹が私と一緒に泣いてくれました。そして私がずっとコンプレックスを抱え、本当の意味で好きになれずにいた子が、私のために涙を流しながら祈ってくれました。証のすぐ後に「たとえば私が」を賛美した時に、「あなたのそばにはいつも、もう一つの足跡」というところで、私の隣で賛美をしていたその子は、私のことを見つめながら、ぎゅっと手を握って、心を込めて、祈りを込めて賛美をしてくれました。その時に賛美を通して語られる神さまの愛について気付かされました。

出会いのチャンスはいつだって誰にだって神さまから用意されています。

でも「自ら出て行って会うこと」は、私たちに与えられた選択の一つだと思います。

私たちと出会いたいと思い、私たちに出会い続けようとしてくださっている神さまと出会うこと。それと同時にこの世界で共に祈り、共に生きるために与えられている神さまの家族に出会いに行くこと、十字架が縦だけでも横だけでもなりえないように、神さまの愛が真ん中にあって縦にも横にも出会いにいける。そんな者へと変えられていきたいという思いが与えられました。神さまは一人で頑張っている。と思い込んでいた私に、最高の出会いを与えてくださいました。一つは私の中に生きていて下さる神さまとの出会い。もう一つは、共に祈り合い共に神さまを見上げることのできる家族との出会いです。自分では祈れない時に、代わりにお祈りしてくれる。言葉にならない思いを共に賛美してくれる。そんな神さまがくれた豊かな交わりの中で、何度も何度もまた神さまに出会わせていただけることに、感謝いたします。

 

「ふたり、または3人が私の名によって集まる時、私もその中にいるのである。」

マタイによる福音書18章20節

 

 

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