「不在の在」(2020年1月19日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)
新年早々「男はつらいよ50 お帰り寅さん」という映画を観ました。
「男はつらいよ」は1969年の第一作以来、いつ頃からか日本のお正月映画の風物詩となり、95年までに48作が制作されました。
しかし主人公の寅さんを演じた渥美清が急逝。
97年に再編集版が公開され、これで幕切れと思いましたが、昨年末、50年目50作目として「お帰り寅さん」が上映されると聞き「どうなるのか?」「寅さんは生き返るのか?」と、興味津々に観に行きました。
物語の舞台は令和を迎えた現代。
かつて「寅さんの周りにいた人々」の今が描かれていく現代劇です。
渥美清ではない俳優が「寅さん」として登場するわけではありません。
劇中に生身の「寅さん」は一度も登場せず、「寅さん」の行方に関して誰も触れないのです。
しかし登場人物の一人一人が所々で、「寅さんとの出来事」や「寅さんの言葉」を思い起こすなかで、それぞれの人生の物語が導かれていくのです。
そういう意味で、生身の「寅さん」はそこにいなくても、実はだれよりも「寅さん」はそこにいると感じさせてくれた映画でした。
さて主イエスの弟子たちは、イエス様が乗っていない舟に、弟子たちだけで乗り込み目的地に向かって漕ぎ出したことがあります。
途中、強い風で海が荒れ、行き詰まり悩む中、舟に近づくなにものかの姿に、弟子たちは恐れます。
しかし「恐れることはない、わたしだ」との声をきき、弟子たちはその声の主を、舟に迎え入れようとするやいなや、舟は無事に目的地に着くという、神秘的な出来事が福音書に記されています。
さて今、私たちの人生の舟にも、目にみえる生身のイエス様はおられません。
しかし、聖書を通して響いてくるイエス様の言葉を、心に迎え入れて歩む人の人生は、
たとえ途中で嵐に遭うことがあるとしても、
神の国という究極の目的地にたどり着けると信じるのです。
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