都会で生活していると、夜も照明で明るく照らされ、本当の暗闇を経験する機会がなかなかありません。
今でも、地方の奥深い田舎まで行けば、何も見えないほどの暗闇の恐ろしさを経験できるのでしょうか?
さて暗闇とは少し違いますが、山形で生活していたある冬の吹雪の夜、旅先から家に帰るために、車を運転していた時に襲った恐怖を思い起こします。
ほそい道が、右に左に曲がりくねったところを通り過ぎなければならないときに、急に吹雪が強まり、フロントガラスの向こう側は全く真っ白になってしまい、何も見えなくなってしまったのです。
後ろにも前にも、対向車もいません。今、目の前は道なのか、田んぼなのか、はたまた壁なのか、がけなのか、まったく分からなくなってしまいました。それは恐ろしい体験でした。
結局どうしたのかというと、カーナビだけを頼りに、道の位置を確認し、ゆっくり、ゆっくりと道にそってハンドルを切りながら前に進み、家にたどり着くことができました。
前の見えない暗闇の中で、壁への激突や、田んぼに墜落しないように、電波によって道を示す「光」として、カーナビがわたしを助けてくれたのです。
さてわたしたちの目は可視光線しか見えません。この地上に存在しているのに、紫外線も赤外線も電波も認識できません。
ましてや、天に関わること、永遠の神と神の御子については、わたしたちの目や耳という感覚器官による経験、知識だけでは、どうしてもわからないものではないでしょうか?
霊的な暗闇に置かれている人々に、ヨハネの福音書は、天の側から「人間を照らす光」(ヨハネ1:4)が与えられたと告げます。
さらに主イエスはこう宣言するのです。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)