2021年9月5日週報巻頭言
「祈ること自体が救い」 牧師 藤井 秀一
9月は「祈り」をテーマに、主イエスが教えてくださった「主の祈り」からみ言葉に聴いていきます。
さて「祈り」(著・左近豊)という本に、8月の礼拝の中で紹介された、秋月辰一郎医師(長崎の原爆投下時、爆心地に近い浦上第一病院で医長をしていた)のエピソードが紹介されていました。
「一九四五年八月九日以降、 家も家族も失って重傷を負った人たちが次々に崩れ落ちた病院跡地に逃げ延びてきた。 焼け残った木陰に避難してきた人たちが迎えた夜、八月の灼熱の太陽が沈んだ真っ暗闇が覆う中で、体中やけどで覆われて痛みと渇きに苦しむ人たちの呻き声があちこちに聞こえたそうです。ところが、どこからともなく祈りの声が聞こえてきた・・・。
もうとても言葉などしゃべれないほどに焼けただれて重い傷を負っているはずなのに、ロザリオの祈りと呼ばれる祈り、その中には「主の祈り」も含まれてくるのですが、その祈りが静かに、でもはっきりとあちこちから「めでたし聖寵充ち満てるマリア・・・今も臨終の時も祈りたまえ」「ああ、イエズスよ、われらの罪を赦しまえ。われらを地獄の火より守りたまえ。…霊魂を天国に導きたまえ」「われらに罪を犯すものをわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」そう祈る声がそこここから聞こえてきた、というのです。長い夜が明けて朝日があたりを照らす頃、ほとんどの人が亡くなっていた、とのことです。
死に際して地上での最後の息を祈りと共に引き取ったことを知ったこの医師は圧倒されます。そして地獄の中でも祈る人たち、すべてが塵芥(ちりあくた)帰した地で毎晩祈る人たちを通して、祈りで病気が治るというようなことではなくて、「祈ること自体が救いだ」ということを深く知るのです。祈りながら息を引き取っていった、この人たちの祈りに導かれるようにして、秋月医師は、のちに洗礼を受けてクリスチャンになったと言うのです」(P.35-6)
人間とは「ホモ・レリギオースス」つまり「祈る存在」であると言われます。
「神に祈ること自体」が、人間が、本来の人間らしい存在へと、神に救われた証。
ゆえに主イエスは言われます。「だから、こう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」(マタイ6:9)と。
https://youtu.be/SrbYz1rSp3M