今日の礼拝では、ウィクリフ聖書翻訳協会の松丸嘉也総主事にメッセージを取り次いでいただきます。この働きの困難さの一端を、パプアニューギニアのフォロパに入った宣教師の本の一部からご紹介しましょう。
「早くも行き詰まったハペレとリサと私は、仕事にとりかかったばかり。まずいのり、鉛筆と紙をそろえ、本を開き、全ての用意ができたのに、初めの1節で、もう動きが取れないとは。しかし始めないことには仕事は終わらない。しかも締め切りが近づいていた 。
フォロパでは「創造」したと言うのは何と言うんだ。この言葉にはまだ出会っていない。私は大抵人々を観察し質問しては、語彙を増やしてきた。
誰かが木を切っていれば何をしているの?と尋ねる。彼らは「ニ・デタポ」と答える。それを書き写し頭に入れる。料理をしていたり畑仕事をしていたするのを見れば、立ち止まって何をしているのかと聞く。何とかして言葉を覚えようとして。
しかし見たこともないことについてはどうしたら良いのか。まして自分が今探してるもののことなどどう説明したら良いのか。私は今まで村のあちこちをめぐる人々に話しかけ言葉を拾い集め、彼らが何をしどうやっているかまたなぜそうしているのかを学んできた。
しかしまだ かつて一度も「創造」、ことに創世記に書かれているような「創造」をしている人見たことはない。無から有を作り出すことなど誰もしたことはない・・・」
(「真理の源を求めて」ニールアンダーソン P.16)
このような気の遠くなるような翻訳の作業を通して、聖書の言葉に触れた現地の人々が、天の父の愛、主イエスの愛と出会い、闇から光へとうつされ、変えられていく様は、実に感動に満ちています。
まさに「聖書は、今も生きて働く神の言葉」なのです