<フィリップヤンシー「誰も知らなかった恵み」P.59より>
「少し前に、私(ヤンシー)は若い娘と喧嘩をしている友人の牧師から連絡を受けた。彼は娘が避妊をし、いく晩かは全く家に帰らなかったことを知っていた。この両親は様々な罰を試したが、効果はなかった。娘は彼らにうそをつき、だまし、そして主客転倒させる方法を見つけた。
「こんなに厳しいあなたたちが悪いのよ!」
友人は私に語った。
「私は娘が帰ってくるのを待ちながら暗闇を見つめていた。ひどい怒りを感じていた。私は放蕩息子の父親のようでありたいと思ったが、娘が私たちを思い通りに操ろうとしたり、私たちを傷つけようとナイフを振り回したことに激怒していた。そしてもちろん、彼女は誰よりも自分自身を傷つけていた。そしてわたしは預言書の中の、神の怒りを表現している個所を理解した。人々は神を傷つける方法を知っていた。そして神は痛みに叫び声をあげた。
それなのに本当のことを言うと、娘がその夜、というより翌朝、帰ってきたとき私が何より望んだのは、娘を抱きしめていとおしみ、おまえのために最良のものを望んでいると言ってやることだった。私はどうしようもなく、愛に痛んだ親だった」
画家のレンブラントは「放蕩息子」を描いたとき、息子を抱く父を、厳格で力強い父のようにではなく、盲目に近い年老いた人のように描きました。
心を痛め、ひどい目にあわされる父。しかしそれでも、なお赦し、新しい始まりを願い待ち続ける父。
「あの弟は、死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」
そう宴を開かずにはおれない父。それがあなた方の、天の父なのだと主イエスは告げるのです。