人間は、一日の内に何千という言葉を、心の中で自分自身に向かって語っています。
たとえば朝起きて窓の外に雨が降っているのを見て、ある人は「いやな天気だな」と心の中でつぶやき、またある人は「恵みの雨だな」と言う。
そうやって心の中で語られ続けた言葉が、やがてその人の行動、生き方として実っていくのです。
たとえ聖書を読んでも、自分が語り続けている限り、神の語りかけを聞きとることは難しいことでしょう。
詩編62編を記した信仰者は言います。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と。
ボンフェッファーは「沈黙」の意味についてこう語ります。
「われわれは、神が最初の言葉であるゆえに、一日の初めに沈黙し、また一日の最後に言葉は神のものであるゆえに、床に就く前に沈黙する。われわれは、ただみ言葉のゆえにのみ沈黙を守る。すなわち言葉を軽蔑するゆえに沈黙するのではなく、言葉を尊重し、これを受け入れるために沈黙するのである。沈黙とは結局、神のみ言葉を待ち、祝福と共に神のみ言葉を受けるということ以外の何ものでもない」
(ボンフェッファー「共に生きる生活」P.74)
神の言葉を聞くための「沈黙」。そして、聞いた言葉が、その人の心のなかで育ち、行動や生き方として実っていくための「沈黙」「黙想」の価値は、大きいのです。