クリスチャンの精神科医として多数の著書がある工藤信夫さんの本に、こんな一節があります。(「今を生きるキリスト者」P.16 …18年ほど前の本です)
「あるとき、私は数年前まで住んでいた住宅地で一つの光景を見てハッとした。
一人のご老人が一人の男の子を連れて、バス停近くに無造作にポイ捨てされている煙草の片端や紙くずを二人で拾い集めていたのである。
この男の子はいわゆる情緒障害時で学校になじめず、学校に行ってもいじめにあうので、つい家に閉じこもり気味になっていた・・・
私は内心「何ということだろう」と思った。朝、先を急ぐサラリーマンのポイ捨てした煙草、学生たちが無造作にそこに捨てて行ったジュースやコーラの空き缶、紙袋を始末しているのが、こうしたご老人や障害を持つお子さんであるとは・・・・
マザーテレサと並んで、世界中に「ラルシュ共同体」というすぐれた生活共同体を作ったジャン・バニエは、見せかけの強さのなかで生きる私たちを、「自ら階段を降りることのできない不自由さを背負った」人々と呼んだ。
つまり、私たちは空き缶をポイ捨てする自由は持ち合わせているが、身を低くして、そこに落ちているゴミを拾う位置に、決して自分自身を置いて考えてはいないのである。
ちょうど、イエスの弟子たちが、足を洗うのは自分ではないと考えていたように(ヨハネ13章)」・・・・
さて工藤さんの言われる、見せかけの強さのなかで生きる私たちの「不自由さ」という指摘にハッとさせられるのです。自分の弱さを他の人と分かち合えない「不自由さ」、自分のプライドに縛られて、不遜な態度しかとれない心の「不自由さ」を背負う私たち。
実に、神の子でありながら、十字架に向かう主イエスこそが、真の「自由人」でした。