「主よ、それでも」 藤井 秀一
2月の主日礼拝では「祈り」をテーマに、旧約聖書の「詩編」の祈りの言葉に耳を傾
けていきます。
「詩編」は、ヘブライ語では「テッヒリーム」といい、「賛美の歌」という意味で
す。神を信じるイスラエルの民が、その長い歴史の折々に歌ったであろう、賛美、祈り
の言葉が集められ、編纂された実に150編という膨大な歌集。それが詩編です。
その詩編の中には、表題によって作者が示唆されているものがあります。表題には
「ダビデの詩」のほかに「コラの子の詩」「アサフの詩」「ソロモンの詩」「モーセの
詩」「へマンの詩」「エタンの詩」などがありますが、数は「ダビデの詩」が圧倒的に
多く、73回も登場します。ただ「ダビデの詩」と訳されたヘブライ語の言葉の意は、
「ダビデに献上された賛歌」「ダビデについての賛歌」とも理解でき、ダビデ以降の作
者が、詩の内容からふさわしい作者と背景を表題として記した可能性もあります。
さて今日読まれる詩編3編には「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃
れたとき」という表題がついています。これはサムエル記下15章以下に記されている
出来事です。
ダビデが息子アブサロムに追われることになった理由は、ダビデが王の権力を利用し
て犯した罪のゆえでした(サムエル下12章11節)
ダビデに反旗を翻したアブサロムにつく民は増え続け、ダビデは王宮から逃げて野に
下りました。その時ダビデは、「主よ、わたしを苦しめるものは、どこまで増えるので
しょうか」(2節)と祈ったことが詩編3編に記されています。
自分の罪のゆえに、このような状況に立ち至ったことが分かっていたダビデ。その意
味において、神に「救い」を求める資格のないダビデ。しかしなおダビデは「主よ、そ
れでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方」
(4節)と祈ったのでした。罪の自覚とその報いの現実の中においてでさえ「主よ、そ
れでも・・・」と祈れたダビデ。そのこと自体が、まさに主の「救い」でありました。
https://youtu.be/igwCiMttvy4