主日礼拝200329
ヨハネによる福音書18章28節~38節前半
「真理とはなにか」
#●序 受難のイエスさまを見つめる
おはようございます。
今日は、この広い礼拝堂で、わたしの肉眼には、数人の方々が見えますが、
天からご覧になっている神様には、この花小金井キリスト教会で、神様がつなげてくださっている、神さまの子どもたち。イエスさまの言葉でいえば、よい羊飼いに愛されぬいている、一人一人の「羊」たちが、心をあわせて、心の目を、天におられる、神様に向けていることを、きっと見ていてくださるでしょう。
新型コロナウィルスの感染を防ぐために、わたしたちも市民として、できうる限りの協力をしたい。それがいのちを作り、愛しておられる、神様の御心であると信じて、昨日の役員会で、この場所にみんなで集まらず、インターネットの配信によって、それぞれの場所で、心を合わせて礼拝することを、選び取りました。
人は、神に愛され、あいされ、そしてその愛にこたえて、自分も神を愛する、この愛の交わりの循環のなかに、身を置くことで、生き生きとしたいのちをいきることができる。
そう信じています。主イエスはいつも天の父に祈られ、天の父のみ心をいきることで、天の父と一つの方であるからこそ、イエスさまはイエスさまであったように。
わたしたちも、その主イエスに愛され、主イエスを通して、神に祈り、神の御心をひとつになろうとするところで、わたしたちらしい、生き生きとした命に生きることができるのです。
その、天の父とイエスキリストとの、聖霊による、愛の交わりの現場。
わたしは、礼拝をそのようにイメージしています。
わたしたちは、すでに神に愛され、生きているだけで、沢山の恵みを、神様からいただいています。
愛されて、愛されている、その感謝を、神さまへの賛美、神様への感謝、神様への献身として、表現し、お捧げする現場。それが礼拝でありましょう。
ですから、遠く離れていても、画面越しであるとしても、その場で、神様への感謝を、賛美を、献身を、捧げてください。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8:10)
このみ言葉が、4月からはじまる、新年度の私たちの教会の、聖句。聖書の言葉です。
今、うつむいてばかりの私たちの心を、上に向け、主に感謝、賛美を捧げることこそが、
主を喜び祝うことこそが、わたしたちの生きる力の源。
どうぞ、画面の向こう側で、ご一緒に賛美してくださいね。
一応、周りの目を気にしながら・・・
さて、今教会は、主イエスの受難を覚える、受難節(レント)を過ごしています。
ある意味、わたしたちは毎年、この受難節を通して、イエスさまの十字架への道をたどり、そのイエスさまのお姿に、触れ続けることで、
この世界には、正しい人であれなんであれ、苦難が襲うのだということ。
そして同時に、イエスさまの十字架への歩みを見つめるとき、その苦難の中にあって、なお愛と正義を貫き通されたイエスさまのお姿、その言葉に触れることをもって、
わたしたちもまた、この世界の闇、苦難、罪の滅びに飲み込まれないで、
わたしたちに与えられた、地上でのいのちを、その時間を、神さまから与えられた使命のために、歩みつづけていく勇気と、力。
明日もまた、生きていく希望を、イエスさまの姿を通して、いただいてきたのです。
先週の礼拝で読まれた御言葉の箇所は、イエスさまを捕らえようとする、この世の闇の力に対して、まっすぐに向き合い「あなたが捕まえようとしている、ナザレのイエスとは、わたしである」といわれた、この世を救う神の子として、闇の力にまっすぐに向き合う、イエスさまのお姿に触れました。
そして、先ほど朗読された、聖書の箇所は、権力者に捕らえられたイエスさまは、まずユダヤの大祭司に尋問され、その後そのユダヤを支配してたローマ帝国から派遣された総督ピラトに、尋問を受ける場面でした。
「尋問」といいましても、この場面を読むとき、そこには、立場の強いものが、弱いものを、問い詰めているという雰囲気は、ないのです。
この権力をもち、ユダヤ人のいのちを、生かすことも殺すこともできる、ピラトの前に、イエスさまは、実に堂々と、しておられるのです。
ピラトは、イエスさまと対面して、いきなり、こう問いただします。
「お前がユダヤ人の王なのか」と
なぜ、ピラトは、いきなりイエスさまに向かって、このような質問をしたのでしょう。話の流れからみると、よく意味がわからない。
イエスさまをピラトに訴えたユダヤ人たちは、そういう理由で、訴えているわけではないのです。
ピラトがユダヤ人たちに向かって、「いったい、どういう罪でこの男を訴えるのか」と聞いてみても、
「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と、要領を得ない返事しかできなかった。
ピラトとしては、それでは裁きようがない。だからピラトは、「自分たちの律法でさばけばいい」と突き返した。
ところがユダヤの指導者は、こう言ったのです。
「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」
これはどういうことか?
ユダヤは、ローマに支配されていて、基本的な自治は認められていたけれども、死刑を執行する権限は認められていなかったので、こういうやりとりをしていると言われます。
そうであるとしても、大切なポイントは、ユダヤの指導者たちは、初めからイエスを死刑にしようと決めて、ピラトのところにやってきていたということです。
はっきりした罪状も言えないのに、ただ、死刑にしてくれ、裁いてくれといってきた。
この不自然さがおわかりになるでしょうか?
これほど同胞であるユダヤ人から、しかも指導者たちから、疎まれ、憎まれている人間とはだれなのか?
そして、ピラトはもう一度、自分の官邸に戻って、イエスさまを呼び出し、聞いたのです。
「お前がユダヤ人の王なのか」と。
なぜ、そういう問いをしたのだろうか?
ピラトにそのように言わせる何かが、イエスさまの中にあったのか?
ヨハネの福音書は、その理由をなにも語りません。
ただ、そのピラトの問いかけに、イエスさまは、こう答えたのです。
「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。
それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と。
実に、不思議な言葉です。
ピラトが質問していたのに、逆にイエスさまが、ピラトに、その質問はあなたの中から出たのか、それともほかの者から聞いたのかと、問い返している。
ヨハネの福音書は、実にこのような不思議なすれ違いが、多いのです。
ピラトは、「お前はユダヤ人の王なのか」と聞いた。
しかし、イエスさまは、その質問自体が、どこから来たのかを問題にするのです。
その問いは、あなた自身の心の中からでてきたものなのか、それとも、だれかほかの人から聞いたことなのか?
どうして、このようなことを、イエスさまは問うのでしょう?
イエスさまは、ピラトという人間と、まっすぐに向き合っています。
ユダヤ人がなんと言っていようと、あなたは、わたしのことを誰だとおもっているのか?
「ユダヤ人の王なのか」と問う、その問は、あなた自身の心の中からわいてきた思いなのか。そうではないのか?
イエスさまは、そのことにとてもこだわっているのです。
37節でも、ピラトが「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスさまはこう答えた。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。
ピラトは、イエスさまとのこの短い対話の中で、誰に言われたわけでもないのに、「あなたはユダヤ人の王なのか」と、何度も問うた。
それは、イエスさまとで会ったピラトの心の中に、そのような問いが、思いが、わき上がってきたからでしょう。
そしてイエスさまは、ピラトの心に、そのような思いがあたえられていることにこそ、注目しておられます。
だれもイエスさまのことを、ユダヤの王などと、言っていないのです。だれも言っていないのに、ただ、ピラトが、なんども、なんども言っている。
それが、イエスさまがいわれた、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」ということの意味でしょう。
#●対話
これはすでに、ピラトがイエスさまを尋問している姿ではありません。
そうではなく、イエスさまとピラトはここで、対話をしているのです。
ヨハネの福音書は、イエスさまとニコデモ、イエスさまとサマリアの女性など、イエスさまとの対話の場面を、大切に、丁寧に伝えます。
ですから、このピラトとイエスさまの対話も、とても大切なメッセージがここにあると思っています。
イエスさまとニコデモの対話、イエスさまとサマリアの女性の対話で、まず気がつく共通点はなんでしょうか?
それは、会話のすれ違いです。
新しく生まれなければ、神の国を見ることができないと言われた、イエスさまに、「母の胎からもう一度生まれることなどできるでしょうか」と答えたニコデモ。
イエスさまは、上からの言葉。天の視点から語っているのに対して、ニコデモは下からの言葉、地上の視点で答えている。
新しく生まれるとは、上からの働き。天からの働きによって、新しい認識、新しい命、神とともに生きる、永遠の命に生まれるということを言われているのに、
このときのニコデモは、お母さんからもう一度生まれるわけがあるかと、下の言葉、地上の視点で語っているので、すれ違うのです。
同じことは、サマリアの女性とイエスさまの対話の時もそうでした。
井戸に水を汲みに来たサマリアの女性に、イエスさまが「この水を飲むものは、誰でもまた渇くが、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたとき、サマリアの女性は「また、この井戸に汲みに来なくても言いように、その水をください」と言った。
イエスさまは上からの言葉。天からの視点で、霊的な水。目に見えない、いのちの水の話をしておられるのに、サマリアの女性は、下の言葉。地上の視点で、そんな便利な水があったらくださいな、といっている。
これもすれ違い。上の言葉と下の言葉。天の視点と地上の視点のすれ違いです。
それは、このピラトとイエスさまの対話においても起こっているのです。
ピラトがイエスさまに、「ユダヤ人がお前を、わたしに引き渡したのだ。いったいあなたは何をしたのか?」と聞いたとき、イエスさまは、全く答えにいなっていない、不思議な答えをなさるのです。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国は、この世には属していない」
この不思議な対話のすれ違い。
ピラトは、ユダヤ人に訴えられているあなたは、何をしたのかと聞いたのに、イエスさまは、わたしの国はこの世に属していない。つまり、この世とは違う次元の国なのだと言われている。
実にすれ違っています。ピラトのこの世の視点。地上の視点から問い、イエスさまは、天からの視点で答えている。
ヨハネの福音書は、この地上の視点と、天からの視点。下からの言葉と上からの言葉の、すれ違いに満ちています。
#●真理について
そして、この世界は、下からの言葉に満ちています。
目の前のこと。目に見えること。今だけ、金だけ、自分だけ。
自分の役に立つこと。とりあえず、食べて、寝て、好きなことをして、楽しんで、
自分が得をすることならなんでもいい。金さえあれば、力さえあれば、地位さえあれば、人生は成功。幸せとはそういうことだ?
そういう、下からの言葉だけに生きている人の、最終的な目標は、つまり「地上の王」ということです。
家庭の中で、職場で、学校で、様々な領域で、自分は偉くなる、王さまになるという、上昇志向という価値観に、縛られてしまっています。
金と自由と誇りを手に入れるのだと、競争し続ける、この世界。
この下からの言葉。下から上をめざす価値観に、真理はあるのでしょうか?
最近、ある大学で卒業式が中止になった代わりに、卒業生の謝辞をホームページに載せたものが話題になっています。
すこし紹介させてください。
卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。
大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。
しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。
私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。
少し省略します・・・
・・・卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。
支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。
しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。
大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。
もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。
それは眠った世界だ。
新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。
なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。
そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
私たちには言論の自由がある。
民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。
大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。
感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。
どうか誤解していただきたくないのは、個人的な批判をしようとして、この方の謝辞を紹介したのではないのです。
この人は、美辞麗句でごまかさない。本音で語っています。
どうせ、この世界は力じゃないか、金じゃないか、力じゃないか、能力じゃないか。
みんな実は、そう思っているから、こんな競争社会なんじゃないか。
そして、わたしはこの競争社会で、結果を出した人間であり、無能な人間ではないのだから、言う権利がある。
感謝すべきなのは、結果を出した自分だ。感謝すべきみなさまなど、どこにもいない。
問われているのは、この若者ではなく、このような若者を生み出していく、この社会を包んでいる空気であり、価値観なのです。
あの「ヤマユリ園」で起こった事件も、あのような、能力主義、差別の思想で、頭がいっぱいになってしまう人を、生み出していった、この社会を包んでいる空気、価値観こそが問われなければなりません。
わたしたちは、知らず知らずのうちに、そのような空気に、価値観に飲み込まれ、がんじがらめになっているのです。
あの卒業の謝辞を書いた学生は、この今の社会の価値観に、対抗も、対決もしていない。
そうではなく、この病んでしまった世界の価値観の代弁者として、ただ本音で語っているだけなのです。
結局、強い者、能力があるものが、自由と金を手に入れて、勝つようにできているじゃないか。
それがこの世界の「真理」じゃないか、と。
わたしたちが、心の奥底で感じ、縛られてしまっている、この世の価値観を、
下からの価値観。下からの言葉に、心がいっぱいになってしまうなら、
わたしたちは、自由を失い、互いに互いを、見下し、批判し、差別し、滅ぼし合っていくしかないのです。
下からの言葉。下だけの価値観に生きるとき、ひとは自由を失い滅んでいく。
しかし、上からの言葉。上からの価値観を語り、そして生き抜いたイエスさまは、こういわれました。
「わたしは真理について証するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」のだと。
この世界は、イエスキリストの存在、その生き方、その言葉においてこそ、下からではなく、上から響いてくる、「真理」を知るのです。
それは、「今だけ」、「金だけ」、「自分だけ」という、この地上で、下ばかり見て、競い合っている惨めな生き方ではなく、
たとえ十字架という苦しみの道を歩むとしても、弟子たちを、わたしたちを愛し抜き、救うために、
天から下られ、ご自分のいのちを、十字架の上に、投げ出されるという、まったくこの世界の価値観とは反対の、その下に下っていく生き方の中にこそ、まことの「真理」が、証されたのです。
神は、この罪ある世界を、裁くのではなく、愛されて、
その大切な独り子、イエスキリストを、上から、天から、この地上のお与えになりました。
たとえ、自分のことにしか関心がなく、感謝すべきなのは、神でも、親でも、だれでもない、上を目指して、結果を出した、この自分であるのだと、今だけ、金だけ、自分だけで、生きてしまっている、
そのような、罪深い、この世界であるにも関わらず、
神は、見捨てず愛されて、この神の愛によって新しい命へと、救い出そうと、
天から下り、下へ下へと、十字架の道を歩んでいかれる、イエスキリストを、この世へと生まれさせた。
この下へ下へと歩まれるお方こそ、天からの言葉、上からの言葉を語り、生きる、「真理」そのもの。
この上からの「真理」は、イエスさまが語る、上からの言葉、上からの声を、聞き取ることが、ゆるされている人々には、
この羊を愛しぬく、良い羊飼いの声が、わかるでしょう。
このイエスキリストこそが、今だけ、金だけ、自分だけというこの世の束縛から、
わたしたちに自由をあたえる「真理」であることが、わかるでしょう。
今日の聖書箇所の最後で、ピラトは、イエスさまに問います。
「真理とはなにか?」と。
イエスさまは、一言で答えようとはなさらない。
「真理」は、一言で言えてしまえるような、概念ではないから。
イエスキリストの存在そのものであり、その生き方であり、その命そのものだから。
そして、このイエスキリストの声を聞きわけ、イエスキリストの言葉に生かされ、その言葉に従っていきようとしているわたしたちもまた、
この闇の世界の中で、まことの「真理」を証しつづけていきる、
一人一人であるのです。
祈りましょう。